高倉健 その魅力
高倉健 その魅力
高倉健 その魅力
高倉健 その魅力

邦画の名作

週末見たい映画

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ストイックな男

役作り

余計なテクニックを廃して、最小限の言葉で、演じる人物の心に込み上げるその瞬間の心情を表す台詞・動きを表現する芝居を真骨頂としているので、基本的に本番は1テイクしか撮らせません。

これについて「映画はその時によぎる本物の心情を表現するもので、同じ芝居を何度も演じる事は僕にはできない」と話しています。また「普段どんな生活をしているか、どんな人と出会ってきたか、何に感動し何に感謝しているか、そうした役者個人の生き方が芝居に出ると思っている」というのを肝に銘じているといいます。

「俳優にとって大切なのは、造形と人生経験と本人の生き方。生き方が出るんでしょうね。テクニックではないですよね」とも言い切っています。仕事に対する姿勢の一端として「親族の葬儀なども一度も参列していないし、それを理由に撮影中止にしてもらったことはない。それは自分にとってのプロとしてのプライドであり、課してきたこと」「(この仕事に就いた時から)捨ててるもんだと思いますよ。捨てなくたって、やろうと思えばできるんだもんね」と語っています。実際に『あ・うん』を撮影した時に母親を亡くした時も葬儀には参列せずに、軽妙な役柄を演じ切っています。

任侠映画の役作りについては、「想像を一生懸命かきたててね。僕の(生まれ育った)町は炭鉱町で乱暴な町だったのね。毎年、お盆の盆踊りのあった後って、必ず殺人があってね。朝、学校行く時、必ずそういう…ムシロがかけてあったりね。そういうのいっぱい見ましたよ。うん、だから僕は品のいい京都とかで生まれて育ってたら、とてもヤクザものはできてないでしょうね。」と、出身地の土地柄、気風、身近だった光景などが、任侠映画の役作りに少なからず影響している事を語っています。

古き良き時代の映画

当院福岡東鍼灸整骨院 交通事故医療情報協会認定院として認定されています。 事故後は適切な治療を受けられるかどうかでその後の身重にも影響を及ぼすため、当院ではしっかりと診察をした後に施術を行っていきます。
身体作り

「俳優にとって身体は唯一の資本」を信条としているので、細心の注意を払っています。筋力トレーニングにジョギングを日課として欠かしていませんでしたが、2012年時点ではウォーキングやストレッチを日課としています。トレーニングのをするときには、脳への刺激や咀嚼力の維持を目的にして、マウスピースを使用しています。

お酒を飲みません。以前は煙草も1日に80本も吸うヘビースモーカーでしたが、映画『八甲田山』が3年がかりの長期ロケとなったため、完成の願掛けに正月の成田山の初詣の際に、禁煙してから30年以上絶っています。都内に居る時には毎日、血糖値測定や健康チェックを行っていて、朝食の時にはミューズリーやグラノーラなどのシリアルにプレーンヨーグルトをかけたものを常食としていて、毎朝しっかりと摂ることで体のリズムを整えて、夕食までほとんど食べない生活を続けています。こうした努力もあって、80歳を超えた今でも体重は70 kg以下を維持していて、若い頃からのウエストサイズは変わっていません。

実は甘党

健さんは賭け事も一切しないので、麻雀好きの片岡千恵蔵からは「麻雀ができないで、なんで良い役者になれるか 健坊」と何度も怒らていましたが、結局麻雀を覚える事は無かったといいます。銀座のような歓楽街に出ていくこともしないので、この事については「変わってると言えば、変わってるのかもしれないね。だから『色気が無い』とか言われちゃうんじゃないの? やっぱりそっちを少しは勉強しておかなくちゃいけなかったのかもしれない。でももう遅いからね、それは……」とインタビューで述べています。このような仕事への真摯な姿勢は、北大路欣也も大きく影響を受けたと述べています。

健さんは実はチョコレートといった甘い物が好きですが、我慢するように心がけているといいます。ビートたけしは『夜叉』の撮影中のエピソードとして、現場で食事をほとんど口にしない健さんだけど、待ち時間には付き人に声をかけて、チョコレートの詰め合わせの箱を持って来させて、中から大好きな「ナッツ入りチョコレート」を選んで食べていたといいます。ある日付き人がそのお気に入りのチョコレートを食べてしまった事から「俺の好きなナッツの入ったやつ、まだ残ってたろ? なんで喰っちまったんだよ!!」と子供のように口を尖らせて怒っている様子を目撃して、たけしの受ける健さんのイメージとのギャップに思わず笑ってしまった、と語っています。

オフの時

完全なオフの期間を含めて都内にいる時にはほぼ毎日、40年来懇意にしている港区高輪にある理髪店に通っていて、髪を切っています。そこの理髪店には高倉健専用の個室が用意されているので、撮影に入る際には店主と髪型を打ち合わせて役柄のイメージでカットしてもらっています。この個室では長時間過ごす事もあるので、個人の私物も数多く持ち込まれています。事務所からの連絡を受けるために個室にはFAX電話も設置されています。

常に感性に磨きをかけて、「感じやすい心」を保っておくためにも、読書や刀剣・美術品鑑賞、映画、音楽など、常に気に入ったものに触れる機会を作りつつ、海外旅行へも出かけています。撮影にのぞむときには、台本のカバーや裏表紙には有名や無名に関係なく、気に入った「心を震わせる」フレーズや詩歌などを貼りつけたり、忍ばせて持ち歩いています。

健さん映画を更に見る

俳優としての姿勢

『網走番外地」の映画では、ヒロインいないので当然ながらラブロマンスも無く、刑務所や脱獄が主題の映画となっていたので、売り上げが見込めないと予算をカットされました。添え物映画でモノクロ作品にすると社長の大川博に言われたので、健さんが社長に意見すると「嫌なら主演を梅宮辰夫に変える」とまで言われてしまいました。

仕方なくロケ地の北海道で撮影に入りましたが、監督の石井輝男がなかなかやって来ません。スタッフと様子を見に旅館へ行くと、石井監督は窓の隙間から雪が入り込んだ粗末な部屋で丸くなって寝ていました。健さんは「この映画をヒットさせるためなら…。監督を笑顔にするためなら、俺はどんなことでもするぞ」とスタッフに漏らしてこの映画は見事に大ヒットとなり、『網走番外地』シリーズは年2、3作で撮影されて計18作のシリーズとなりました。

1976年(昭和51年)に東映から独立してから、作品の内容、スタッフ、ギャラなど自分自身が本当に納得できる作品を選んで出演していますが。その一方で「より厳しい状況に身を置いて、役者としての自分を磨くこと」も信条としています。

健さんが初の松竹出演となった『幸福の黄色いハンカチ』の冒頭では、刑務所から刑期を終えて出所した直後の食堂で、女性店員についでもらったグラスに入ったビールを深く味わうように飲み干した後に、ラーメンとカツ丼を食べるシーンがあります。その収録で「いかにもおいしそうに飲食する」というリアリティの高い演技を見せて、1テイクで山田洋次監督からOKが出ましした。あまりにも健さんのリアリティ高い演技が見事だったので、山田監督が問い尋ねると「この撮影の為に2日間何も食べませんでした」と言葉少なに語って、山田監督は唖然となりました。

1983年(昭和58年)降旗康男監督作品『居酒屋兆治』の準備が進行していた頃に、黒澤明監督作品『乱』に「鉄修理(くろがねしゅり)」役での出演を打診されています。「でも僕が『乱』に出ちゃうと、『居酒屋兆治』がいつ撮影できるかわからなくなる。僕がとても悪くて、計算高い奴になると追い込まれて、僕は黒沢さんのところへ謝りに行きました」と述べています。黒澤監督は当初から高倉健を想定してこの役を書いていたので、この時には黒沢監督自ら高倉宅へ足繁く4回通って、「困ったよ高倉君、僕の中で鉄(くろがね)の役がこんなに膨らんでいるんですよ。僕が降旗君のところへ謝りに行きます。」とまで申し出ていますが、高倉健さんは「いや、それをされたら降旗監督が困ると思いますから。二つを天秤にかけたら誰が考えたって、世界の黒澤作品を選ぶでしょうが、僕には出来ない。本当に申し訳ない」と謝罪して、この話を断りました。黒澤監督からは「あなたは難しい」と言われましたが、その後偶然『乱』のロケ地を通る機会があって、「畜生、やっていればな……」と、後悔の念があったと話をしています。

そして『乱』出演の話は 『南極物語』が撮影される前から黒澤サイドからのアプローチがあったといいます。健さんも学生時代からの憧れだった黒澤監督からの打診に気持ちが動いて、何度か顔合わせをしていましたが、極地ロケを終えて帰国してみると、既に『居酒屋兆治』のプロジェクトが始動していて、函館での実景撮影が進行していたので、『乱』への出演を諦めざるを得ない状況となっていました。この事について「黒澤監督には本当にご迷惑をおかけしました」と振り返っています。そんな経緯もあったので『居酒屋兆治』は当初は、「全く乗らない撮影だった」と語っていて「現場では怒鳴りまくってましたからね・・」とも述懐しています。しかし、仕上がった映画は「しみじみと味わい深い作品」となっているので「これも運でしょうね」と今では、この時の決断に満足している旨を「高倉健ロングインタビュー」で語っています。

撮影後

東映を離れて、フリーに転じてからは、1つの作品を終えるたびにスクリーンから離れて、マスコミや公の場から距離を置く事を決まり事としています。その理由には、1つの作品を終えるたびに高倉を襲うという、“深い喪失感”に関係しているといいます。

特に『あなたへ』に主演する前には、健さん最長となった6年間の空白期間が生じました。前回主演した日中合作の映画『単騎、千里を走る。』の後に、中国人の共演者やスタッフたちと別れるときに感じた気持ちと『あなたへ』の出演を決めたことについて、「分かんないね……。多分ね、この別れるのに涙が出るとかっていうのは、お芝居ではないところで、泣いているのだと思うんですよね。ああ楽しかったとか、別れたくないとか、もう二度と会えないかもしれないとか。特に中国のスタッフは。だから、そういうものを自分がお金に取っ替えてるっていう職業ってのは、悲しいなあってどっかで思ったのかもしれないね。それを売り物にするものでは、ないんじゃないかなっていう。でもしょうがないですよね、同じ人とずっとはやれないんだから。そういう切ない仕事なんですよ。だから、それはそんなに気を入れなければいいんだっていう、そのこともわかってるんだけども、やっぱり出会って仕事だ、出会って仕事だって言う。分かってるんだけど、強烈なのを受けると、しばらく。なんとなく、恋愛みたいなものなんじゃないの。多分、恋愛だよね。じゃなきゃ泣きませんよ。お金もらうところじゃないんだもん、映ってないところで泣くんだから。泣くんですよ。大の大人が(笑)。それが中国は強烈だったってことでしょうね。いや、今でも分かりませんよ。じゃあ、なんで今度(『あなたへ』)はやったのって言ったら、こんなに断ってばかりいると、またこれ断ったら(降旗)監督と、もうできなくなる年齢が来てるんじゃないかなと、2人とも。それはもう1本撮っておきたいよなっていうのが、今回の。本音を言えばそうかもしれないよ。」と、その心情を初めて漏らしています。

っています。